MY介護の広場トップ >  一般のみなさま >  介護の知恵袋 >  メールマガジン配信コラム&エッセイ~専門家が語る介護の話~ >  人の尊厳に挑む・人として「生きることを応援する」のが介護の本道

人として「生きることを応援する」のが介護の本道

 日本の国で生きている人に限らず、私たちの仲間ホモサピエンスという生き物が、どんな「共通の生きる姿」をもっているのかを大胆に考察すると、次のようことが想像できます。

  • 自分のことは自分で(自分でできることは自分でする)
  • 互いに助け合って(自分ひとりだけで生きているのではなく、他人と互いに折り合って助け合いながら生きている)
  • 社会とつながって(箱の中に籠って生きるのではなく、自然と向き合って社会を構成して社会とつながって生きている)

 子どもを育てるときに親が目指す子どものいきつく先の姿は「自立できること・共存できること・社会生活を営めること」ではないでしょうか。
 そう考えると、要介護状態になって介護保険を活用する人たちは、自分の能力と自分をとりまく環境により、「一般的な人としての生きる姿」を維持できなくなり、自分の力だけでは生きていけなくなった人たちだと言えます。
 だからこそ「支援の仕組み」や「支援する人」が必要になるのですが、支援を担う「仕組みや人」が、そのことをしっかり踏まえたうえにあるかと言えば、はなはだ疑問です。
 逆に「仕組みや人」がその人のできることを奪ったり、人と遠ざけたり、社会と切り離している現状があるのも事実ではないでしょうか。

 僕は、介護という仕事のなかで、ずっとそのことをテーマにしてきました。
 要介護状態にある人たちに「今まで」をあきらめさせて新たな姿(できることに制限を受ける・人との関係に制限を受ける・社会とは切り離される)で生きさせるのではなく、「今までを維持すること・取り戻すこと」が僕らの仕事であり、その「今まで」とは、「その人が生きてきたまま」を取り戻すことは不可能だとしても、前述したような共通にみられる「一般的な人としての生きる姿」だということです。
 つまり、新たな自分の状態に基づく生活の再構築を応援するということですが、その「ものさし」を「人が生きる姿」におくということです。
 自宅で暮らせなくなった人が、特別養護老人ホームやグループホームに転居した場合で、それを例示してみましょう。

 食事の基本は「何を食べようかな」と思い描くことから始まり、食材を調達しに出かけていき、街の人たちと触れ合いながら買い物をし、帰ってきたら調理をして、食べて、片づけてといったように、「栄養が足りていればよいという食」ではなく「食ごと(食事)」です。
 それらが自力でできなくなったのなら、その姿を維持したり、取り戻せるようにするのが支援であるはずですが、必ずしもそのようにはなっていません。
 多くの施設では、「食事は施設側が用意します。何も考えなくとも手出ししていただかなくても食べられます」と「提供型:お客さま扱い」にしています。

 その結果、何を食べるかを考えることなく、買い物に出かけることなく、街の人々と触れ合うことなく、調理をすることなく、それらを通して入居者同士が共同することなく、成果を分かち合うことなく、ただどこかで誰かが作ってくれた「加工食:エサ」を食らっているだけの毎日になっています。
 もちろん出前や外食なども選択肢にあっていいんです。ちなみに僕の言う「エサ」とは、自分で獲得行動をしなくとも勝手に与えられる食のことを言い、「食べるか・食べないか」の選択しかないもののことで、動物園で飼われている動物の食と同じということです。

 この写真は、我がグループホームに住んでいた婆さんですが、食材の調達を職員の支援を受けて行なっているところです。
 この方も「与えられる食」の施設に入居していましたので、買い物に行く買い物をするという能力があっても、実際はただテーブルの前に座って配膳されるのを待つだけの姿しかありませんでした。ところがグループホームに入居されてからは毎日のように買い物をする姿を取り戻すことができました。

 また普段、僕らは朝起きて昼間の衣類に着替えます。寝床から出て洋服をしまってあるタンスまで出向いて行き、タンスの中を覗いて「今日はどの服にしようかな」と衣服を選択し自分で着用します。移動できなくなると、職員がタンスに出向いて行き、タンスの中を覗いて「今日はこれにしよう」と衣服を選択し着用させてしまいます。例え本人に「選ぶ能力が残っていたとしても」です。
 また本人にどこかへ行きたそうな素振りが見えても、「どこに行きたいか」を本人に聞くこともなく、職員が連れていきたいところへ連れていく。それはレクリエーションのような場合にも言えます。例えば本人に「体操やゲームをやっていますが、参加しますか」と聞けばいいものを、問いかけることもなく、時間になったら体操やゲームを行う場所に有無を言わさずに連れていく。かつては日常であったろう夜の街を歩くことや、雨や雪の日にお出かけすることも現実から消えてしまいます。

※買い物帰りの姿です。

 そんなこんなを書き出したらキリがありませんが、人が要介護状態になって「介護の仕組み専門職」に出会ったことで、それまで当たり前にあった「今まで」が、「今までどおり」であることが不十分であることは致し方ないとしても、全く日常生活から失せてしまいます。そのようなことを国民が願っているとは到底思えません。

 先日、僕が関わっているあるグループホームの運営推進会議(法令で定めた家族や行政関係者や地域住民等で行う会議)に出席しました。
 するとその会議で、入居者の家族が、「『年寄り殺すにゃ刃物はいらぬ、あげ膳すえ膳すれば良い』という言葉があるが、ここでやってもらっていることは、その真逆。最初は、そんなことまでさせるのか!と不安に思ったが、うちの身内だけでなく、みんながどんどん元気を取り戻してきた。ほんとにありがたいことです」と話されていました。
 それは、ここのグループホームでの暮らしぶりが、「今までの取り戻し」がその日常であるからでしょう。入居者にとってはそれが違和感のないことで、脳と身体に「今まで」のような働きをうながす形になっているからこそなのでしょう。

 介護とは何かを、しっかり見つめることが必要なのではないでしょうか。

【執筆者プロフィール】

和田 行男/わだ ゆきお

認知症ケアの第一人者。高知県生まれ。1987年、国鉄の電車修理工から福祉の世界へ大転身。特別養護老人ホームなどを経験したのち97年、東京都で初めてとなる「グループホームこもれび」の施設長に。
現在は(株)大起エンゼルヘルプでグループホーム・デイ・認知症デイ・ショートステイ・特定施設・小規模多機能型居宅介護を統括。『大逆転の痴呆ケア』『認知症開花支援』他、著書多数。

関連著書紹介
認知症になる僕たちへ

人の尊厳に挑む

MY介護の広場トップ >  一般のみなさま >  介護の知恵袋 >  メールマガジン配信コラム&エッセイ~専門家が語る介護の話~ >  人の尊厳に挑む・人として「生きることを応援する」のが介護の本道