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急げ!認知症対応型国家JAPAN

 2013年6月1日付朝刊各紙に掲載された「認知症高齢者462万人」には驚きました。しかも軽度認知障害と言われる「予備群」が400万人にものぼると発表されました。
 これは厚生労働省研究班による調査結果ですが、先に発表された「現在305万人、2025年470万人」をはるかに上回る数字で、さまざまな施策を根本的に見直さなければ、とうてい追いつけない規模で認知症が広がっているということです。
 僕は、かねてより「認知症先進国にふさわしい認知症対応型国家」を目指すことを唱えてきましたが、これは急務な国民的課題です。
 そのためには、医療や介護の仕組みを整備することはもちろんのことですが、国民の人生観など根本的なところにまで課題を投げかけ、人が生きること・それを支えることの限界点などについて「折り合い点」を見出し、国民全体が「かくご」をもった社会づくりが急務ではないかと思っています。

 僕の関係する入居施設で暮らすおよねさん(仮名)は、毎日数十回と施設から外へ出掛けていきます。
 入居当初は、柵やベランダを乗り越え、窓から何度も何度も外に出ていきました。ときには、施設貯水槽の下をくぐって出ていったり、どこからでも施設の敷地外へ出ていかれるのです。そのたびに職員が付き添っていました。
 しかし、半年を過ぎる頃には、そういった行動もなくなり玄関など出入口から外に出る「ふつうの姿」になりましたが、出る頻度は変わりませんでした。そんなあるとき「こと」が起こったのです。

 その「こと」とは......。

 およねさんは、元来気分の変動が激しい方で、認知症という状態にあります。そのため外出時は職員が一緒についていきます。職員に対して好意的なときはいいのですが、瞬間的に嫌悪感を抱くと逃げるように走り出すのです。そのときも前触れもなく急に走り出し、6車線の大通りを信号の色などおかまいなしに渡ってしまったのです。
 これはそのままにはしておける状況ではありません。次の一手が必要です。
 そこで職員と家族で話し合いをもちました。
 実はおよねさんは、ある時点から、施設から出ていかれても10回中8回~9回はひとりで戻って来ることができるようになっていました。そこで施設としては、職員は付き添わずに「ひとりで歩いていただく」ことにしました。嫌悪感を抱く相手が、そばにいないようにしたのです。
 この判断は間違っていませんでした。その後数ヵ月間が経ちましたが、戻ってこられず行方がわからなくなるといったことは一度も起きていません。ひとりで施設から出て、ひとりで戻ってこられるようになったのです。

 このように認知症になっても一般市民と同じように「ひとりでお出掛け」する姿は、僕や職員たちが願った姿であり、一般の人が願う姿でもあるでしょう。
 これまでにも僕の関係する施設では、施設に入居された認知症の方が「ひとりでお出掛け」をすることへの取り組みを行ってきました。その方法は、およそ以下の通りです。

 まず、入居された直後は、必ず職員が付き添って、毎日同じ所へ繰り返し出掛けます。
 最初職員は何があってもすぐに対処できるようにその方の「横」につきますが、徐々に「その方の視線から外れた位置」で付き添うようにします。
 するとわかってくるのは、「職員に依存している行動か、それとも自分の判断での行動か」ということです。
 自分の判断で行動できるようになるとはどういうことかと言えば、例えばスーパーに買い物にいく道順を間違えずに歩いていけ、スーパーマーケットに入っていけることです。それができれば、「自力でスーパーにいけた」となります。
 こうした地道なことを繰り返すことで、「毎日ひとりでミスタードーナツに出掛けてタバコを吸って帰ってくる」とか「毎日ひとりでスーパーに出掛けてカミソリを買ってくる」とか「毎日散歩に出掛ける」とか「ひとりで美容院にいく」といったように、誰もが行なっている市民生活の姿を、認知症という状態にありながらも取り戻していけるようになったのです。

 もちろん誰でもがそういうわけにはいきませんが、このような姿を取り戻した人たちの多くは、僕の関係する施設に入居する前に入っていた施設では、施設に施錠をされ閉じ込められていた人たちで、それが、こちらに移り住んでから元の姿を取り戻せたということは、「いわれなき理由によりいわれなき姿に追いやられていた人たち」ということになります。それはいわば、決して「絶対的に閉じ込められなきゃならない状態の人」ではなかったということでもあります。
 つまり「同じ人」でも、どの介護保険事業者に支援を受けるかで「生きる姿」が変わるということを意味し、これは国民にとって「合点のいかないこと」ということになるのではないでしょうか。これは単なる「お出掛け」の話のようですが、基本的人権にかかる話なのです。
 僕は自分の信念として、「人が人として生きることを支える専門職として、認知症になっても市民生活を送ることができるように支援」してきました。そしてこれからもそのことを社会に広めるよう世の中に投げかけていきたいと常日頃思っています。

 ところが、そんな僕の周辺にまたある「こと」が起こったのです。
 それは、およねさんにかかわる「更なること」です。
 その「更なること」とは......。

 「ひとりお出掛け」で市民生活を取り戻すまでは順調だったのですが、職員がついていないために、およねさんの行動を「制御するもの」がなくなったのです。
 あちこちから物を持ち帰る(持ち去る)、バラやアジサイなど人さまが育てた草花を引きちぎる、他人さまの敷地に入っていく、道端で排せつをするといったような、いわば「反社会的な行動」があからさまになったのです。
 近隣住民の皆さんは、「認知症がそうさせているのだから」とか「いつかは自分たちも」ということで寛大に受け止めてくださってはいますが、いくら認知症があるとはいえ反社会的な行動まで市民の皆さんに受け止めてくださいとは言えません。また、そうとも思ってもいません。かといって「閉じ込める」ということも思いません。大きな課題として今もあるのです。
 介護保険制度は、人員配置基準や介護報酬から察すると、そこまでを想定しているようには思えませんし、無鉄砲に人手を入れて解決できるというものでもありません。
 仮に、僕の思い込みでしかないとしても、ここで僕らが根を上げたら、その「およねさん」から「市民生活の姿は無くなる」と思っていますし、閉鎖病棟や閉鎖施設や薬物で行動を制限(抑制)する道へも追いやりたくありません。

 介護の仕事は、人が人として生きていけるように支援する・応援するものだと思っています。決して人の生きる姿を奪うものではあってはならないと思っています。
 およねさんが施設内に踏みとどまれるようにするにはどうすべきなのか。その支援策、付き添える体制の構築など、まだまだ僕らにできることはあると考えています。そしてそれに、挑まねばならないとも思っています。


※職員は、彼女にとって「施設内にとどまる実感がもてる意味や目的」を一生懸命見出しています。

 僕は全国各地の専門職向け研修会や市民向け講演会などでよく参加者に確認するのですが、その限りでは「自分は最期まで自分らしくありたい」と圧倒的多数の人たちが願っています。でも、そう願っている自分が、自分の婆さん(母親)に対しては、それを踏みにじっていることに気づいている人は、ほんのひと握りです。
 それを責めることは簡単です。
 でも、それも今の現実の中では致し方のないことでもありますが、およねさんの意思や気持ち(本意)だけを尊重することが支援の専門職の道ということでもありません。しかしながらおよねさんの意思や気持ちを剥ぎ取るだけでは奴隷化を意味するだけで、それは人の道に外れます。
 僕ら専門職には、およねさんの意思を大事にし、かつ踏みにじりながらも、日本人に共通する「あるべき姿」に向かって折り合い点を見出していくために力を尽くすことが求められるはずです。

 介護保険法では、「尊厳の保持」を謳っていますが、「認知症になったら基本的人権は損なわれることもやむを得ない」という事態もタブー視してはならないと思います。そこのところで社会的な「折り合い点」をどう構築していくか。それが、この国が「認知症対応型国家」になれるかどうかの岐路ではないでしょうか。
 例えば、認知症という状態にある方が入居系の施設に入居するときに、自分の意思で入居するなどということはありません。行政も家族も、自分たちの事情で「放り込んで」いるのです。
 放り込まれた当事者にしてみれば人権無視も甚だしい話ですが、誰もそれを虐待とは言いません。放り込んだ人たちも、それが人権に抵触し虐待だなんて思ってもいないでしょう。
 僕から言わせれば国家的虐待ですが、そんな酷いことをしておいて、放り込みを受け入れた介護事業者・従業者だけに「尊厳」を求めるのは大きな矛盾です。
 しかも当事者は、「家に帰せ!」と訴えている。といってその当事者を家に帰せるはずもなく、鍵をかけて閉じ込めてしまう。そのことには疑問もなく「その人らしく」なんて語っているとしたら間抜けな話です。
 ここは、まずは国民的な合意として、認知症になったら「基本的人権は損なわれることもある」と宣言すればいいのです。その上で「できる限り人として生きていけるように支援する」ことを専門職に求めることにすればいいのです。そうしなければ、憲法を遵守すべき行政マンさえ、言っていることとやっていることに矛盾を抱えるでしょうし、僕ら事業者・従事者も矛盾を抱えたままとなってしまいます。

 他にも、転倒によるケガ、入居者同士のいさかいにおけるケガなど、見守れない・付き添いきれない現実があります。ですから、「防げないことがある」ことを国民全体の合意とする必要があります。その合意のもとで「介護の社会化」を発展させないと、やがてそのしわ寄せは最終的にはみんな、要介護状態にある国民にくることになるでしょう。
 NHK「プロフェッショナル~仕事の流儀~」(2012年6月放送)に出させてもらいましたが、それを見てくれた人から「人手がない中で尊厳なんて無茶である」という批判的な批評をもらいました。僕もそのことには同感です。違うのは、人手がないからこそ尊厳に挑むのが専門職だと思うところだけなのです。
 ぜひ、皆さんの中で、議論の材料にしていただければと思います。また僕もいろいろな機会を通じて課題を投げかけていきたいと思っています。

【執筆者プロフィール】

和田 行男/わだ ゆきお

認知症ケアの第一人者。高知県生まれ。1987年、国鉄の電車修理工から福祉の世界へ大転身。特別養護老人ホームなどを経験したのち97年、東京都で初めてとなる「グループホームこもれび」の施設長に。
現在は(株)大起エンゼルヘルプでグループホーム・デイ・認知症デイ・ショートステイ・特定施設・小規模多機能型居宅介護を統括。『大逆転の痴呆ケア』『認知症開花支援』他、著書多数。

関連著書紹介
認知症になる僕たちへ

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